お前はあらゆる頂上の深さである

今日はお前を私が読むだろう、そしてお前は私のなかで生きるだろう

「あらゐけいいち資料集」に関する遠況報告

 

あらゐけいいち先生の作品が大好きで、同人活動としてあらゐ作品の記録と解説をまとめる作業を続けてきた。

 2018年の2月から延々と文章の作成を続けているわけだから、この原稿に着手し始めてから、そろそろ二年半が経過する計算になる。

 

そしてその間、僕が何を思い浮かべてきたのかといえば、あらゐ先生に興味を持つ何人かの読み手が、自分の原稿を受け止める未来のことばかりであった。

 

それが実現するかどうか、本当のところは誰にもわからない。
不安定な社会情勢であるのだから、めでたく自分が原稿を作り終えたとしても、刊行の目途がつくかもわからない。


しかし、以下の文章においては、未来の不確定な要素について目を瞑っていただき、
僕がいま空想している、都合の良い未来が訪れたものとして、書き出していきたいと思う。


製作者の冥利に尽きる幸福な未来のイメージ、
すなわち僕が刊行した「あらゐけいいち資料集」を、何人かの熱心な読み手が手に取っている光景が実現したものとして、話を進めさせていただきたいと思う。

 

虫の良いことを言うようで申し訳ないが、しばらくの間だけこらえてもらいたい。
というのも、目下のところ僕が興味を持ち、語ることを欲している「夢」は、
複数の読み手に資料集を読んでもらえた幸福な未来をスタート地点にして始まる事柄だからだ。

 

 

 

さて、万事がつつがなく進行して、かねてより空想を続けてきた幸福な未来が訪れたのだとしよう。

 

その次に僕が考えなければならないのは、
「どれぐらいの期間、読み手に資料集が受け入れられる未来が続いてほしいのか」という理想についてである。


たとえば、あらゐ先生に関する資料が一瞬間だけ読み手の好奇心をくすぐり、その後永遠に思い返されなかった場合を思い浮かべてみよう。
確かに僕の望みは叶っている。
だが、僕はそれで本懐を遂げたといえるのだろうか。

 

もちろん、それだけで満足だと考える作者もいるだろう。
移り変わりの早い苛烈な市場の中に作品を手あたり次第投げこんで、一時だけでも大衆に享受されることを望む。

それも創作物の一つの在り方であって、無下にされるいわれはない。

 

しかし僕は、「あらゐけいいち資料集」に寄せられる読みが、数日かそこらで途絶えてほしくないと思った。

 

 

それでは僕は、どれだけの間「あらゐけいいち資料集」が読み継がれてほしいと考えているのだろう。

 

一年? 
いやまだ足りない、
百年だ。

 

僕はいま作っている資料集が、少なくとも、百年間は読み継がれるような原稿として仕上がっていなければならないと考えているのだった。

 

資料集の原稿を書きながら、僕は百年後の未来を思い描く。
自分はもう死んでいるだろうし、あらゐ先生もいないだろう、
初めに「あらゐけいいち資料集」を手に取ったあらゐ先生の読み手も、おそらくはこの文章を読んでいるあなたも、みな寿命を迎えているはずだ。

 

百年後にもまだ人類は生存しているのだろうか、
全滅とまではいかなくとも、戦争や災害に苛まれ、文化を享受できる状態にないのではないか、
文化そのものは存続していたのだとしても、百年後には古典芸能になっているであろう漫画文化は廃れているのではないか、
あらゆるものが様変わりして、誰も何も楽しめなくなっているのではないか、

 

さまざまな問題が頭をよぎり、心配ごとは尽きない。 

だが僕は、やはり無根拠に、百年後の未来にもあらゐ先生の読者がいると強く信じたいと思う。

平成中期から令和の時代を駆け抜けた一人の個性的な漫画家に強く惹かれる、「古典文化」の研究者が一人でも現れている未来を信じたいと思う。

 


まだこの世に生まれていない、しかし百年後には確かに実在しているはずの一人の研究者。
彼ないしは彼女は、『日常』『CITY』そして次なるあらゐの作品に強く魅入られているだろう。

何せあらゐ先生の作品なのだ、未来に生きる人物にも通用する、普遍的な、不思議と心惹かれる箇所があるはずだ。

 

とはいえ、何せ百年前の風俗にしたがって描き出されているので、あらゐ作品を読んでいて、意図を汲み取れない箇所も多いと推定できる。
その研究者はきっと、作品に不思議と魅了されつつも、頭の上に疑問符を浮かべているに違いない。

 

 

そんな研究者が生きる世界に向けて、僕は百年前の過去から、「あらゐけいいち資料集」を送り届けたいと思う。

あらゐけいいち資料集」の記述でもって、作品に隠されていた真意を百年後の研究者に辿らせる。

そして遠い昔に過ぎ去った、漫画文化の最盛期であった21世紀前半という時代に思い至るよう、研究者をみちびくのである。

 

百年後の未来に生きる人に向かって、あらゐ先生の作品についての情報を伝えること。

それが僕が資料集に願いを込めようとしている、「夢」である。

そして、あらゐ作品に魅せられ、人生を捧げている者が果たすべき使命だと、いみじくも考えているのである。

 

 


ここまで文章を読まれたあなたはどう思われているのだろうか。

大言壮語だと笑われているのだろうか。

それとも、遠い未来のことなど分からないと首を振るのだろうか。

 

しかし、だからといって、僕が未来を夢見ることの価値が損なわれるわけではない。

人が取りうる行動の大半は、未来を無根拠に信じることと引き換えにして生み出されるのだから。

 

 

 

あらゐ先生の作品は百年後も誰かが読んでいる、それは間違いない。

だとすれば、そんなあらゐ先生の作品に見合うだけの力強さを、僕は資料集に込めなければならない。

百年後にも続く文体と考察、そして愛。

 

僕にできるのはそれだけだ。

 

百年後に僕を知る者はいないだろう。

いや百年を待たずとも、数十年、数年のうちに僕はいなくなり、やがて忘却されるのかもしれない。

そのことに異存はない。

 

しかし、ひとつだけ願いが叶うのであれば、あらゐ先生の記録と記憶だけは百年後もどこかに遺っていてほしいと思う。

あらゐけいいちという21世紀前半から活躍した作家が存在して、 

あらゐけいいちという作家が好きな読者が存在したことが、

遠い未来において知られることがあれば素晴らしいと思う。

 

そんな夢のような話が地上で実現している様子を思い浮かべながら、僕は今日も遠い未来を手さぐりするようにして原稿をまとめ始める。

 

 

 


先月末に、一年がかりで『日常』の資料をまとめ終えた。
7月20日現在、『CITY』の単行本2巻の原稿を進めているところだ。
なんとか今年中に草稿をまとめ終えて、来年に体裁を整えて刊行できればと思う。