完結しえなかったあらゐけいいち『日常』批評と、『あらゐけいいち資料集(仮)」の進捗報告について
あらゐけいいち先生の『日常』について何らかの批評を書きたい、という思いはずっと前からあった。
『日常』は青春のすべて、と言っても差し支えないほど、自分はこの作品に熱を上げてきたのだし、
顕現としての「日常」が決して壊れえぬということ(前) - お前はあらゆる頂上の深さである
そうした個人的な思い入れを抜きにしても、『日常』がユニークな漫画であることに相違はないと思う。
そして過去に私は、実際に、『日常』の批評の草稿を書き始めもしたのだった。
しかし、すべての原稿は没にしてきた。
どう書いても、自分の展開する議論が空回りしている気がしたからだ。
なぜだろう?
作品の内容がもともと言語化しにくいのはあるし、自分の筆力の限界もある。
しかし、『日常』の批評が成立しない根本の原因は、もっと違うところにあるように思われた。
今ならば、この原因について明確に説明することができる。
『日常』を批評する妨げになっていた要素。
それは、「作品を取り巻く環境」の変化だったのだ。
……
『日常』が連載された当初(2007~2008頃)の評論を集めてみると、
『SPA!』『クイックジャパン』『スタジオボイス』と、サブカルチャー系統の批評が大半を占めている。
また、評論家・佐々木敦が『日常』にいち早く注目しているのも重要だろう。
佐々木は、『文化系トークラジオlife』にて本作を推薦したほか、自身の編集する『エクス・ポ』の中にあらゐの3コマ漫画を掲載している。
こちらも、サブカルチャー系統の批評誌に属する。
このときの評論では主に、『日常』が「昭和的な要素(ベタなギャグや80年代カルチャーのネタ)」を意識的に取り入れている点に注目するような言説が書かれていることが分かる。
こうした着眼点は、上記の雑誌のライターの嗜好を考えれば当然のことであるし、実際に的を射た分析であった。
不思議な表現になるけれど、『日常』の目新しさは、往年のギャグ漫画に用いられてきた表現を取り入れた「古さ」にあったからだ。
一方で、『日常』の掲載誌である『少年エース』『コンプティーク』の作品について論じていそうな、「オタク批評」の界隈はどうだったのだろうか。
サブカルチャー批評の賑わいに反して、『日常』はほとんど無視されてきたといってよい。
平坂読のライトノベル『ラノベ部!』にてパロディのネタに用いられたのが関の山で、雑誌はもちろんのこと、ブログにおいても殆ど批評されることはなかった。
しかし、アニメ版『日常』の放映(2011)を機に、「オタク批評」における『日常』の立ち位置は大きく変化を遂げる。
『日常』は、「京都アニメーション発の」「アニメ」として、アニメ批評を生業とするブログや評論本でこぞって取り上げられるようになったのである。
そして、入れ替わるようにして、サブカルチャー系統の批評は姿を消した。
当時の批評ブログをすべてを参照することは難しい。
しかし、その多くが、アニメ『日常』を「日常系アニメ」(定義の難しい語であるのだけど、ひとまずオタク界隈で慣用的に用いられている表現として)の文脈から語る内容であったように思う。
そして、女子学生がたむろする「日常系アニメ」的な作品でありながら、その枠組みに収まりきらない『日常』を、「シュール」の一語で片づける言説がほとんどだった。
こうした視点も、決して間違いではなかったはずだ。
京都アニメーションが制作し、「オタク文化」を賑わせた『らき☆すた』(2007)『けいおん!』(2009)の延長として『日常』を捉えるのは、アニメ視聴者にとってはごく自然な行為であったのだろう。
しかし、興味深いのは、その後の漫画『日常』に対する言説が、アニメ『日常』の延長として受け止められるようになった点である。
その最たる例は、読売新聞2011年11月28日に掲載された特集だろう。
https://twitter.com/kumomajin/status/902525070773387265
ここでは、「日常系マンガ」の一作品として、『日常』が紹介されている。
おそらく、『日常』がアニメ化される以前に批評を書いたライターにとって、こうしたカテゴライズ方法は突拍子もないものとして映ったはずである。
2011年当時、サブカルチャーの立場に立っていた読者層が、『日常』を読んで連想したのは、吉田戦車を代表とする「不条理ギャグ漫画」であるだろう。
あるいは、『ぱにぽに』のような少女の登場するギャグ漫画を思い起こしたのかもしれないが、どちらにせよ、『けいおん!』と『日常』を結び付ける発想はなかったに違いない。
サブカルチャー批評の文脈から、アニメ批評への文脈へ。
『日常』はアニメ化を機に、「作品を取り巻く環境」が大きく転換した。
誰も語ったことはなかったけれど、これは『日常』という作品にとって、大きな事件であったと思う。
もちろん、どちらの視点が正しく、どちらの視点が間違いだという話をここではしたいわけではない。
いくつもの見方を可能にする『日常』という作品の魅力が、ここでは明らかになっているわけで、その多層性について評価するべきなのだろう。
しかし書く人のバックボーンによって切り口が全く変わってしまう『日常』の性質は、私に「批評家」の紡ぐ言葉の限界を、見て取らせてしまったのだった。
結局のところ、どんな評論家も、自分の経験や知見を越えるような批評はできないのではないか。
サブカルチャーに根を下ろす人間は「サブカル」的想像力を、アニメと向き合う人間は「オタク」的想像力しか持ちえないのではないか。
大げさなことを言えば、批評に時代を突き破る力はないのではないか、と感じてしまったのである。
初めから間違っていると分かって批評を書く人はいない。
正しいと信じているからこそ人は文章を書くのだし、論理の精度を上げていけば、ある程度の妥当性を獲得することはできる。
しかし、誰もが納得する結論を、批評を通して書き上げることはおそらくできない。
自分の認識にも、そして読み手の認識にも限界がある。
だから、私が自分の知恵を総動員して『日常』について書こうとしても、それは「自分を取り巻く環境」の反映にしかならない。
ゆえに私は、『日常』について語りえないことを悟り、匙を投げた。
……
ところで私は、今年の3月から7か月間、あらゐ先生が『日常』を描き始めるまでの歴史を調べ上げて、書きつないでいる。
おそらく来年に発行できるであろう、「あらゐけいいち資料集(仮)」の原稿をずっと書き続けてきたのである。
この原稿の中には、「批評」は一切存在しない。
ただ事実関係と発見を、あらゐ先生が様々な箇所に書き残した言葉を拾い上げ、引用しながら書き進めているだけだ。
もちろん、一人のあらゐ先生の読者の視座から原稿を編んでいるのだから、自分でも認識できない嗜好や文章の偏りは出てきていると思う。
しかし、私のあらゐ先生に対する「証言」は、何らかの価値があるものとして信じることができる。
というよりは、一人の漫画家の個人史を辿っていく行為を通して、記録すること・記述すること・記憶することの重要性が、改めて自分の中で明らかになっていったように思う。
ひとりの人間が時代を越えることはできない。
しかし、ひとつの時代の一員であることを自覚し、個人の立場から「証言」することならできる。
そして、その「証言」には、重大な意味があると信じる。
小難しい話をするのなら、私の見た批評の限界は、言葉の敗北を意味していなかった点を、ここで改めて強調しなければならないと思う。
自分の正しい言葉ひとつで世界を語りつくさんとする「批評」の野心を捨て、時代の一部分を担う「証言」として、謙虚に言葉を差し出すこと。
作品の内容を記録し、記述し、記憶すること。
その作品について作り手ごと記憶するような内容を含んでいる限り、万人にとって価値あるものとなるのではないか。
そういえば柄谷行人は、《批評とは、思考することと存在することとの距離をそのまま見ること》と話していた。まったくもって、その通りだと思う。
今は抽象的な言葉でしか言い表せない。だが、思考することの段階でとどまるのではなく、《存在すること》の「証言」であることによってのみ、批評は意義を持つ。そうした確信を、私は自分の中に備えている。
……
現在、「開けっ!」(2006年発表同人誌)を調べた文章の草稿を書き終えたところである。
私はこれから、『日常』をまとめ始めることになるだろう。
時間はかかるだろうが、この文章が完成し終わったとき、私は「あらゐけいいちという作家にとっての『日常』という作品の立ち位置」について、大まかな見取り図を書き上げていることだろう。
それは、長年描きたいと願ってきた『日常』の評論の代わりとして、しかし当初の目的よりも豊かなものとして、結実すると思われる。
生活の変化に追われて、筆が滞ることもあるのだけど、早く書き進めていきたい。