お前はあらゆる頂上の深さである

今日はお前を私が読むだろう、そしてお前は私のなかで生きるだろう

【英文記事翻訳】ギャグ漫画の傑作『日常』は、タランティーノの『Four Rooms』から着想を得ていた

 

あらゐけいいち先生へのインタビューを含んだ『日常』『CITY』のレビュー記事(英文)を翻訳しました。

・意味が通りやすくなるように、逐語訳ではなく意訳をした部分がかなりあります。原文の細かなニュアンスについては元記事を参照してください。

・読みやすさを考慮して、記事の中に小見出しを付け加えています。

・記事の特性上、特定の作品に辛口の評価が下されていますが、訳者の意図とは無関係です。

 

元記事

Nichijou, the Goofy Manga Classic, Drew Inspiration From a Tarantino Flop

www.fanbyte.com

 

 

以下翻訳↓

 

 -----------------------------------------------------------------------------------------------

 

 《ギャグ漫画の傑作『日常』は、タランティーノの「失敗作」から着想を得ていた》

クエンティン・タランティーノが監督を務めた映画『Four Rooms』(1995)は、決して完成度の高い作品とは言えない。

だがしかし、この映画はあらゐけいいちの漫画『日常』に大きな影響を与えていたのである!

  

 

  

日常生活を題材に優れた作品を紡ぐ

世の中には本当に多くのメディアがあり、多くの創作物で溢れている。

にもかかわらず、私たちの普段の生活をそのまま切り取ったような作品はほとんど見られない。大半のメディアが、人々の暮らしぶりを大袈裟に脚色するか、完全に無視する形で作品を送り出しているためである。

 

私たちが重要な事件や特別な出来事に出くわすことは、そう多くない。人生の大部分は、日々の些細な事柄や、何も起こらなかった日の出来事によって構成されている。

だというのに、日常生活という題材は、とにかく評判が悪い。これは、視聴者や読者が非日常的な出来事の方を歓迎し、メディアに求めているせいでもある。

 

しかし、そうだとすると、漫画家・あらゐけいいちの功績は評価されるべきだろう。

この漫画家は、たとえばノック式シャープペンシルの芯を出そうとした登場人物が、誤って芯の飛び出した先端部分の方を親指の腹で押してしまったときの、壮絶な痛みに悶える姿を漫画に描く。

タピオカミルクティーをストローで啜る登場人物が、タピオカの食感に恍惚とする姿を漫画に描く。

 

それは、あたかも世界中の「調味料」を、「メインディッシュ」の地位にまで引き上げて味わい尽くすかのような試みだ。

あらゐは、普段は顧みられない日常生活を題材にして優れた作品を紡ぎ、漫画家としてのキャリアを築いてきたのである。

 

 

あらゐけいいち漫画の群像劇

 あらゐの漫画のなかでも特に有名なのは、『日常』(英題「Nichijou」「My Ordinary Life」)だ。

2006年から2015年にかけて連載されたこの作品は、2011年にはほぼ忠実な形でアニメ化もされている。

現在も連載中の『CITY』は、『日常』の続編としての意味合いも持った作品である。

 

『日常』という題名を聞いて思い浮かべるのは、一般的には日本のサブカルチャーにおける一ジャンル「スライス・オブ・ライフ※」だろう。[※海外におけるサブカルチャー作品のジャンル区分、日本でいうところの「日常系アニメ・漫画」に近い]

だが、あらゐの漫画は「スライス・オブ・ライフ」とは似て非なる。

 

『日常』も『CITY』も、総じてショートコント的なつくりになっている。

読者は、登場人物が日々の生活のなかで喜んだり落ちこんだり、戸惑ったり、あるいはくだらないことで争うような話を垣間見ることができる。(ほとんど何も起こらない話もある)

 

また、群像劇形式で構成されているのも特徴的だ。あらゐは、自身の漫画の作風に相応しい存在として、愚かでしかし愛すべき街の住人たちの社会を、丸ごと描き出しているのである。

特に『CITY』ではその傾向が顕著であり、単行本第4巻までで40人以上もの人物が登場している。

 

あらゐは『Fanbyte[※掲載元のサイト]』に対して、次のようなコメントを寄せている。

 

これだけの大人数を動かして物語を完成させるのはとても難しい。毎回苦労しています。もちろん、とても楽しい作業でもあるんですけどね。すぐにアイデアを思いつくこともあれば、三日経っても何も出てこないこともあります。

 

 

 

あらゐけいいち漫画の「リアリティ」

 もう一つ、あらゐに特有の漫画特徴を考えるのなら、読者にとってありふれた場面から物語を始めて、次第に現実離れした描写を取り入れていくような表現が挙げられる。

 

たとえば、犬に噛まれた人は、現実に何人もいることだろう。

しかし『日常』の世界において、犬に噛まれた場合、ただ痛みにのたうち回るだけでは済まされない。苦しみ悶えるあまり、その人の口からレーザー光線が発射される。

 

洒落た喫茶店に置いてある紛らわしい名前のメニュー表を見て、面倒だと感じる人は珍しくない。

ただし、あらゐ漫画では、複雑なメニュー表の読み取りは自分自身の正気を保つための戦いとして受け止められる。

 

同級生への恋心をムキになって否定する高校生も、沢山いるに違いない。

これも、あらゐの世界では、悶々とした悩みを発散するために当事者が軍事兵器を持ち出してくる。

 

ここで共通して見られるのは、あらゐは現実とは異なる世界を、現実逃避の手段として用いていない点だ。

『日常』や『CITY』は、「もしも〇〇だったら」といった、あり得ない空想を叶えたりはしない。

代わりにそこに描かれているのは、「リアリティ」である。

「リアリティ」とは得てして、時にはオーバーなものとして、時には喜劇的なものとして、人の心に映るものだ。

そのような、私たち一人ひとりが感じ取っている「リアリティ」こそが、あらゐの漫画には通底して流れているのである。こうした描写が、強烈なギャグを生み出す力の源になっているのは間違いない。

 

ちなみに、これらの場面は、アニメ版『日常』(京都アニメーション制作)にて映像化された際、どれも素晴らしい出来栄えになっている。

 

 

 

あらゐけいいち漫画のルーツを探る

 くだらなさに溢れた状況設定、大量の登場人物が織り成す群像劇、変幻自在のリアリズム。

あらゐの漫画によく似た作品として思い浮かぶのは、『シンプソンズ』第7シーズン第21話、「スプリングフィールドに関する22の短いフィルム」だろうか。

このエピソードでは、一話で一つのストーリーを描く従来の形式を放棄して、一つの街に住まう大勢の人々の短い挿話を繋いでいく形式を採用している。〔参照:「シンプソンズファンクラブブログ」http://simpsons333.hatenablog.com/entry/2019/10/20/021805

 

しかし、あらゐによると、『シンプソンズ』は特に意図していなかったという。

 

海外のアニメは、ほとんど見たことないですね。『シンプソンズ』について知っているのは、黄色のキャラクターが出てくるアニメってことぐらいです。

 

代わりあらゐは、自身が影響を受けた作品として『あずまんが大王』を挙げている。

なるほど『あずまんが大王』は、人々のありふれた暮らしぶりをユーモラスに再現しつつも、時おり不条理な世界観が差し挟まれる作品である。あらゐが『あずまんが大王』から受けた影響は、推して知るべきだろう。

ほかにもあらゐは、影響を受けた作品として、カート・ヴォネガットの小説も挙げている。ヴォネガットからの影響も、言われてみれば確かに納得がいく。

 

ヴォネガットは文章の表現がとてもいいんです。誰もが重要だと思っている物事を、些細な出来事として描いてみたり、反対にありふれた出来事を極端に誇張してみせたり。大きな問題を小さく、小さな問題を大きくしていくやり方が、とにかく好きでした。

 

一方であらゐは、誰もが意外に思うであろう映画作品に感化されていた。クエンティン・タランティーノが監督を務めた映画、『Four Rooms』から大きな影響を受けたとあらゐは語っているのである。 

 

 

タランティーノの「失敗作」、映画『Four Rooms』とは

 1995年に公開された『Four Rooms』は、タランティーノが三人の監督(ロバート・ロドリゲス、アレクサンドル・ロックウェル、アリソン・アンダース)に声をかけて生まれた合作映画だ。

タランティーノは当時、映画『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』の成功によって、新進気鋭の監督として名を馳せつつあった。

しかし、先回りして言っておくと、『Four Rooms』は完全な「失敗作」である。400万ドル(約3億2千万円)の製作費を費やして、得られた収入はわずか20万ドルほど(!)であり、監督を含めた関係者は酷評されることになった。

 

今現在、この映画をわざわざ取り上げるのは、タランティーノが2007年に公開した『デス・プルーフ in グラインドハウス』のファンぐらいだろう。

デス・プルーフ』は、しばしばタランティーノ映画のワースト1位として話題に出てくるが、それに我慢のならないコアなファンが、汚名をそそぐために「いや、実はもっとひどい映画があってね……」といって『Four Rooms』を引き合いに出すのだ。

 

散々な評価の『Four Rooms』であるが、それではこの映画は、どのような内容の作品だったのだろうか。

この映画は、タランティーノを含む四人の監督がそれぞれ一つずつ話を制作した、アンソロジーの形を取っている。したがって、四つの異なる物語に分かれているのが本作の大きな特徴と言える。

物語の舞台はいずれもロサンゼルスにある古びたホテルで、新人ベルボーイのテッドが主役である。テッドは四つの話のすべてに出演し、各話につながりを持たせている。

 

ホテルに着任したばかりのテッドは、演者であるティム・ロスのオーバーな演技もあって、仕事をこなそうと過剰に意気込む青年として観客の前に現れる。

だが、そんなテッドのやる気は、急速に失われていく。働き始めて早々、常識では考えられない厄介なトラブルが、次から次へとテッドの身に降りかかったためである。

第一話「ハネムーンスイート お客様は魔女」では、テッドはホテルの一室を陣取る魔女たちの儀式を手伝わされる。

続く第二話「ROOM 404 間違えられた男」では、間男と間違えられたテッドが夫に拳銃を突きつけられる。

第三話「ROOM 309 かわいい無法者」では、宿泊客のベビーシッター役を請け負ったテッドが悪辣な子供にこっぴどくしてやられる。

 

すっかり憔悴してしまったテッドは、辞職を考えてキャシー・グリフィン演じるホテルオーナーに電話をかける。しかし取り合ってもらえず、そのまま最後の第四話「ペントハウス ハリウッドから来た男」にて、ホテル内でにわかに開催されたギャンブルに立ち会う羽目になる。このギャンブルは、敗者が小指を切り落とすというものだった。

 

 

 

Four Rooms』の問題点

 『Four Rooms』は、暗い雰囲気でありながら喜劇的でもあり、なおかつシュールな部分もある、野心的な映画を目指していたと思われる。

だが、そうした野心が実を結ぶのは稀であり、本作においても残念ながら上手くいかなかった。

 

まず、第一話「ハネムーンスイート」。この話は、魔女の集団が儀式を通して女神を召喚する場面がクライマックスとして想定されているはずなのだが、十分に描き出されているとは言えない。

その結果、ポルノ的な場面(儀式に必要な材料である精液を採取するために魔女がテッド相手にセックスをする)が中途半端に続いた後、尻すぼみで話が終わってしまっている。

第二話「ROOM 404」は、話にオチをつける代わりに、同性愛嫌悪的な描写を挿入するのだが、その根拠が乏しく、話としてうまく成立していない。

 

タランティーノが監督を務めた最後のエピソード、第四話「ペントハウス」はどうだろうか。

編集なしで撮影を続ける長回しのテクニックばかりが悪目立ちしているせいで、観客はスクリーンを通して映画を観るというより、タランティーノの作家性を観ているような気になってくる。

技法だけが浮いてしまっていて、作品の面白さに繋がっていないのである。

 

唯一、第三話「ROOM 309」だけが、短編作品として成功していると言っていい。

両親がホテルの外に出かけている間に、残された二人の子供は暴れ回り、スラップスティックな騒動を巻き起こした挙句、宿泊していた部屋で火災を起こす。

この話は、悪ふざけに昂じる子供たちの描写がよく練られている。一つ一つの場面を着実に積み重ねていって、視聴者にも納得のいく形で予想外の出来事が起こる物語の構成は圧巻だ。

 

しかし、結局のところ、この映画は失敗作だと言わざるを得ない。監督一人ひとりが好きなことをやって、四つの話の組み立てがなおざりになってしまっている。

「自分の映画を撮り終えるまで、他の三人がそれぞれどんな話を作っていたのか、何も理解していなかった」、三つ目のエピソードを監督したロバート・ロドリゲスは後に認めている。

 

 

 

あらゐけいいちが映画『Four Rooms』から受けた影響

 ここまで、『Four Rooms』の失敗している側面ばかりを挙げてきた。しかし、この映画があらゐに大きな影響を与えたというのも理解はできる。というのも、あらゐの漫画と『Four Rooms』は、話の構成がよく似ているからだ。

どちらの作品も、一話完結の短い話を描いている一方で、他のエピソードとの繋がりを示すような描写も散見される。よって、すべての話を通して見終えたとき、作品世界の全体像が浮かび上がってくるような構成になっているのである。

あらゐは、自身の漫画と『Four Rooms』の関わりについて、次のように説明している。

 

長編を描くのが、あまり得意じゃなかったんです。でも、短い話をたくさん描いてまとめれば、長編とはまた別の形で「全体」が作れるのだと『Four Rooms』から学ぶことができました。

自分には飽きっぽいところがあるので、短編を重ねる構成は、特に性に合っているのかもしれません。

 

もう一つ、『Four Rooms』との共通点として挙げられるのは、ティム・ロスの演じる主人公・テッドの立ち回りだろうか。

テッドは劇中、宿泊客の態度に逆上して盗みを働き、野蛮な暴力をふるう場面があるので、あらゐの漫画とは無縁に思われるかもしれない。

しかし自由奔放なテッドの姿は、あらゐの漫画に登場する多くの人物、とりわけ『日常』の主要人物の一人であるゆっこ(相生祐子)と重なり合うところがある。

 

また、理不尽なまでの不幸な目に遭ってしまうという点に注目すれば、テッドとゆっこはそっくりだ。

もっとも両者は、次々に降りかかる不運を前にして、対照的な態度を取っている。

テッドは自分の不幸を嘆き、業を煮やした後、最終的には自分一人だけが得をする道を選ぼうとする。

対するゆっこは、どれだけ不運に見舞われようともへこたれない。そして陽気さを忘れず、幸せを周囲に届けることが自分の義務だ、と言わんばかりの振る舞いをする。ゆっこは「バカ」で、至らないところもあるのだが、とにかく周囲のことを思って行動を続ける。

 

ゆっこは、どれだけ酷い目に遭っても挫けない。それでいて、日々の暮らしのなかで出会った人たちを否定せず、ありのままを受け入れる。

ゆっこの存在感は大きく、行動に一貫した軸のないテッドたち『Four rooms』の登場人物に比べて、圧倒的に印象に残る。

 

私たちは、ゆっこを見て「バカ」だと笑うだろう。だが同時に、ゆっこのことを「主人公」として、知らず知らずのうちに認めてしまっているはずだ。何か大きな成功や達成をゆっこが果たしたわけでもないにもかかわらず、である。

してみるとゆっこは、人間はドラマチックではない日々の生活のなかにあっても「主人公」になれるのだ、というメッセージを密かに主張していると言えるのかもしれない。

 

 

 

日常生活のなかにこそ、価値あるものは宿っている

 『Four Rooms』は、取るに足らない「失敗作」と判断されても仕方がない作品である。

さまざまな要素を取り入れようとしたのはいいが、まとまらずに空中分解しているのは明らかであり、個々のエピソードに注目してみても、ただ悪趣味なだけで完成度の低い作品群にしか見えないからだ。

 

ところがあらゐは、そうした価値がないはずの映画作品から、漫画を描く上での重要なヒントを見つけ出した。

もちろんあらゐは、映画をそのまま流用したわけではなく、十分に吟味し、発展させた上で自作に取り入れている。だが、それを差し引いても、『Four Rooms』があらゐの漫画作品の根幹を支える一部分になっているのは間違いない。

 

もしもあらゐが『Four Rooms』を視聴していなかったとしたら、『日常』や『CITY』は、全く違う作品になっていたのだろうか。その答えは誰にもわからない。

ただ、仮に『Four Rooms』と出会わなかったとしても、あらゐは何かほかの「失敗作」から独自に価値を見つけ出して、自身の漫画に活かしていたのは間違いないように思われる。

 

 

私たちが重要な事件や特別な出来事に出くわすことは、そう多くない。人生の大部分は、日々の些細な事柄や、何も起こらなかった日の出来事によって構成されている。

だというのに、日常生活という題材は、とにかく評判が悪い。これは、視聴者や読者が非日常的な出来事の方を歓迎し、メディアに求めているせいでもある。

 

あらゐは、そんな世の風潮に逆らうようにして、普段は顧みられない日常生活を題材にした優れた作品を紡いできた。

きっとそれは、私たちが見過ごしてきた毎日の暮らしのなかにこそ、価値あるものが宿っているということを、あらゐがよく知っているからなのだろう。

 

そして、誰もが見過ごしてきた『Four Rooms』のなかから、価値あるものを見出して『日常』や『CITY』を作り上げた実績が、あらゐの正しさを物語っている。