お前はあらゆる頂上の深さである

今日はお前を私が読むだろう、そしてお前は私のなかで生きるだろう

顕現としての「日常」が決して壊れえぬということ(前)

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅰ」

Title:お便りの角度316°

……、

 

夢想家の若い少年がそれまで抱え持っていた、未熟な人生観をたやすく打ちのめしてしまう、
それを知ってしまったが最後、情熱を注ぎ、憂き身をやつし、傾倒し、焦がれ、望み、求め、貪らずにはいられない、
その生涯を決定づけるほどの大きな啓示をもたらす、「魂」に根ざした一冊の啓典。

 

そのような書物は確かに存在するのであり、私にとってその作品にあたるのが、あらゐけいいち先生の『日常』1巻でした。


たかだか漫画の一作品に、大げさだと思われるでしょうか?

しかし、私の心境を正確に書き起こそうとするのなら、これしきの形容では大げさどころか、むしろ不足しているように思われるのです。

 

そんな『日常』1巻を初めて読み終えたときに見た、特別な景色は、今でも目蓋の裏側にはっきりと焼きついています。
それはいつかの年の夏休み、もう少しで14歳の誕生日を迎えることになる私が、深夜アニメなどを観はじめてまもない頃に起きたセカンドインパクト体験だったのでした。

 

……、

 

矢継ぎ早に繰り出されるエピソードにぐいと意識を引き寄せられ、
まじろぎひとつせず、比喩ではなく、本当にページをめくる手が止まらなくなってしまった在りし日の私。
そのような、なかば夢心地の状態にあった意識が回復したのは、

 

「コケ機能なる装置をそなえたロボット女子高生の足からジェットの炎が噴き出し」
「直立した姿勢のまま開発者の研究所の屋根を突き破って大空に飛び立つ」

 

という、思わず目の覚めるような最後のページをめくって、少し経ってからのことでした。

 

単行本の裏表紙に載っている青髪の女子高生、彼女のあっけからんとした微笑を呆然と眺めやり、
本を表返すといやでも目につく異様な存在、学習机の上に立っている鹿のつぶらな瞳と視線をかち合わせる私。

 

今一度本を開き、目次絵の少女の青い瞳のなかに描かれた「日常」の二文字を視認し、
ふたたび最後のページに描かれている、空に飛び立つロボット少女の驚きに澄んだ瞳を見つめる私。

 

ふと正気に返ると、私の身体は、二種類の激甚なる、叫びたいような感情で充ちていることに気がつきました。

 

ひとつは、「こんなマンガが世の中にあっていいのか!!」という驚愕。
ひとつは、「こんな面白いマンガが世の中にあったのか!!」という感動。

 

そして急いで読み返し、最後のページに辿り着くとやはり、その面白さから茫然自失となり、しかし今度は、

「ちょっと待って!よく考えたらコケてないじゃん!飛んじゃってるよこの女の子!!」

と、摩訶不思議なエピソードに対して、ツッコミを入れる余裕を見せたりしたのでした。


……(続きます)

 

 

 

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅱ」

Title:お便りの角度330°

……、

 

「これまで前例のなかった作品であり、かつ前例がないほど面白い作品である。」
これが『日常』というマンガに対して、今に至るまで変わることなく抱き続けている想いです。

 

さて、私は随分と長いあいだ、この作品に魅了され、感化され、インスピレーションを受けて育ってきました。
私の手元にはいつも『日常』があり、飽きが来ないことに自分でも驚きながら、数えきれないくらい読み返してきました。

 

今後の人生で、これほどまでに心を奪われ、夢中になることのできる作品に出会うことはもうないのかもしれない。
そう考えると、大好きな物語を読み終えてしまうときに感じる、あの寂しさとはまた別の、熱く激しい情念が腹の底からふつふつと沸き上がってくるようなのでした。

 

今や私の精神には、あらゐ先生の作品がトラウマ体験のように強く深く根づいています。
今や私の肉体には、『日常』の物語が稠密な刺青のように強く深く刻みこまれています。

それゆえに私の思想の多くは『日常』によって生まれ、また私の思想の多くは『日常』に行き着きます。

 

『日常』とは私にとっての存在基盤であり、私にとっての大地であるとともに、大地の恵みでもあったのでした。

(くどいようですが、これは誇張表現ではなく、「事実」の列挙なのです。)

 

……、

 

少し前のネットスラングに、「○○は神」という言葉があります。
しかし私は、もっと重たい意味で、大真面目に、「あらゐ先生は神」と信仰してきました。

私は一回の読書体験によって「二度目の生」を授かり、生まれ変わったのです。
少なくとも、これまで私はそのように信じて振る舞ってきました。


あるいは、より正確に、また誤解をおそれずに表現するのなら、
私は『日常』およびあらゐけいいち先生の諸作品に「呪われ」続けてきた、と書くべきなのかもしれません。
それほどまでに強い影響を受けながら、私は年を重ねていったのでした。


そんな私があらゐ先生と『日常』に対して深い感情を抱くようになったのは、ごく自然の成り行きであったのだと言えるでしょう。


……(続きます)

 

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅲ」

Title:お便りの角度342°

……、

 

今日に至るまで、あまりにもバカバカしいので、誰にも言ったことはありませんでしたが、今この場で告白してしまいましょう。
私にはすでに破れてしまった、ひとつの夢がありました。

 

というのは、私は心の底から、三歳になったばかりの幼児が「ウルトラマンになりたい」と望むのと同じ切実さで、
「あらゐ先生になりたい」と思い憧れ、中高生の鬱屈した時期を過ごしてきたのです。

 

振り返ってみて少し猟奇的だと思うのは、あらゐ先生「みたいに」なりたい、あるいは、あらゐ先生「のような漫画を描きたい」と願うのではなく、
ただひたすらに、「あらゐ先生になりたい」と考えていたところでしょうか。

 

当時の私が切に求めていたのは、『日常』という一筋縄ではいかない漫画作品、そして私を魅了してやまないあらゐ先生のイラストに対する、さらなる理解でした。

『日常』はすでに私のなかで啓典と化していましたから、ただ純粋に、より深く読解したかったのです。

 

ただ、面白さの真髄、内奥の奥の奥の奥にまで辿りついてみたかった。
それを言語にして誰かに説明してみたかった。

 

ご存知の通り、あらゐ先生の作品には、「わかりやすいギャグ(登場人物のドタバタ劇など)」から「わかりにくいギャグ(パロディ)」まで、万遍なく敷き詰められている、という特徴があります。

もちろん、「わかりやすいギャグ」だけでも充分に楽しめるのですが、私は先生の提示するギャグをすべて汲み尽してみたい、と次第に望むようになっていました。

 

しかし当時の私は、まだ深く読解するための学が、まったくと言っていいほど追いついていません。
まだあらゆる意味で読書経験が浅く、今にもまして未熟だった中高生の自分。

 

「何やら面白いことが作品のなかで起こっていること」は痛いほど分かるのだが、その正体を掴むことができない。
そのことが、もどかしくてたまらなかったのでした。

何よりも、なぜ私がここまで『日常』に肩入れしているのか、その理由さえ分からない。

 

「面白さの秘密を知りたい!」

「逆に、何が面白いのか具体的に理解することができれば、私は『日常』の面白さを、より正確に、誰かに伝えることができるだろう!」

 

そのためには、「あらゐ先生ご本人になる」のが、もっとも手っ取り早いのではないか!
「あらゐ先生になる」!そうすれば、先生の漫画のすべてを知ることができる!

そのような飛躍した理論を、私は本気で信望していました。

 

……、

 

まったくもって当たり前の話ですが、人は「誰か別の存在」になり変わることはできません。
(絶対的な他者と自分との関係については、あらゐ先生の同人作品でも繰り返し言及されていますね)

 

いかに憧れていようと、自分と他人は別モノである。
しかし、物心がついたころには知っていなければならないこの事実を、本当の意味で悟ったのは、
なんと私が大学生になってからのことでした。

 

私は「あらゐ先生になること」はできない。
私が青年になるころに経験することになる、当然すぎる結果である、この挫折の感覚。

 

しかし何事にものめり込むことなく、逃げてばかりだった私が初めて味わった現実との齟齬は、

同時に私が子供であり続けることを拒み、精神的な成熟へと導く担い手として、私の背中を力強く押していくようにも感じられたのでした。

 

……(もう少しだけ続きます)