お前はあらゆる頂上の深さである

今日はお前を私が読むだろう、そしてお前は私のなかで生きるだろう

あらゐけいいち『日常』論(仮題)についてのメモ

はじめに

◯「脱日常」して考える『日常』の話

あらゐけいいち先生の漫画『日常』の感想を述べる人は、十中八九、「シュール」「日常/非日常」の二語を用いて話を進めています。

つまり『日常』の語り口は、「絵柄がかわいい・独特」みたいな意見を除けば、

・シュールギャグとして云々

・日常系の作品(あるいは読者自身の日常生活)に比して云々

この2パターンに大別される、ということです。

しかし、このアプローチの仕方は「もっともだ」と思う一方で、「実は何も語れていないのではないか」、と最近になって考えるようになりました。

なぜなら、「シュール」「日常/非日常」はそれぞれ曖昧な概念であり、個々人のあいだに大きな認識のズレが存在するからです。

もし本気で「シュール」「日常」を絡めて何かを論じるのであれば、先に膨大な文量(それこそ論文が一本書けてしまうくらいの量)を費やして、それらの単語を定義する必要があるでしょう。

しかし多くの人は、「主観的に見て」よく分からないことにシュールのレッテルを貼り、「主観的に見て」ありふれたことを気軽に日常と言い定めているのです。

これでは一般性に欠けた考察しか行うことができません。

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現在の漫画・アニメ論は話がとっ散らかっており、本来ならば分別すべき作品が十把一からげに「シュールギャグ漫画」として扱われている状況です。

また、「日常系」の解釈については、もはや体をなしていないといっても過言ではありません。

(海外では、“Slice Of Life”という全く別の尺度で「日常系」作品が類別されていたりして、「日常」という言葉がいかに各々のローカルルールに依っているかが分かると思います)

思うに、漫画『日常』を読んだ人、特にアニメ『日常』から本作を視聴し始めた人の多くは、この「日常」というタイトルに感想を引っ張られすぎていると思うんですよね。

1巻では笹原先輩が「私達が過ごしている日常とは奇跡の連続かもしれん」と説き、アニメ版では25話にて、みおの回想として再びこの言葉が登場します。

最近では、日常×巻の巻末コメント(日常2巻発売直後に開催されたサイン会で配布された「あとがき」の再収録です)にて、あらゐ先生本人から、「日常」という語についての見解を読み解くことができます。

なるほど、これだけを見れば、「日常」という言葉が、いかにも神秘的で、ストーリーの核心に迫るキーワードであるかのように思えることでしょう。

「特別でない、ありきたりの出来事」の積み重ねから生まれる「日常」、しかし、そのような「ありきたりの日常」を過ごす日々こそが、実は「特別」であったのだ。

と語る笹原先輩の弁。

少年の頃過ごした「特別な日々」、もしも、あの日々に慣れ親しんでいたのなら、「特別な日々」は「日常」に変わっていたのだろうか。

そして「特別な日々」を送っているように見える『日常』のキャラクターが、われわれにとっての「日常」に変わる日はやって来るのだろうか。

と述べるあらゐ先生の弁。

この二つの論の展開は、いかにもロマンティシズムに溢れており、感動を覚えずにはいられません。

しかし、真の意味で『日常』という作品を読み解こうとするのであれば、このような、感情に絆されるような読み方に甘んじていてはいけないと思うのです。

ロマン主義的なものの見方とは、得てして「そこに存在しないもの」に「超越性(トランセンデンス)」を見出すことで、逆説的に「理想的な存在を喚起させる」企てのことを指していいます。

つまり、身も蓋もないことを言ってしまえば、そこに「ロマン」を感じるのだとすれば、その中身はかならず「空っぽ」だということです。

だから、われわれは、「日常」というロマン溢れる「空っぽ」の語から離れて、もっと即物的に、目の前に確かに存在する作品批評に力を注がなければならないのです。

『日常』について考えるには、まさに「日常」という概念から脱しなければならないのです。

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要は「シュール」「日常」という概念は、他人と意味を共有しにくいので、使用を避けた方が賢明だという話です。

そこで今回の評論では、この二語を使わずに、『日常』の魅力、ひいてはあらゐ先生の漫画についての考察を行うことにする、

といった発想が、ひとまずの出発点になります。

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いくつか章立てをして本論は進めていく予定でいます。

おそらく一番最初にまとめるであろう論旨は、『日常』における「笑い」と「コンテクスト(文脈)」についての話です。

これは平たく言うと

『日常』は、

・登場人物の激しい動きや変顔、丁寧な説明などの「分かりやすいギャグ」

・高度なパロディや飛躍したツッコミの論理、天丼ネタなどの「分かりにくいギャグ」

が混在しているが、

このような「ローコンテクストな笑い」と「ハイコンテクストな笑い」が入り混じり、かつ両立しているギャグ漫画って、実は古今東西を見渡しても類を見ないのではないか?という主張です。

多くのギャグ漫画は、その笑いの種類から「分かりやすいギャグ漫画」「分かりにくいギャグ漫画」に割り振ることができるが、『日常』はその「どちらでもある」点で特異である。

また『日常』は、「分かりにくいギャグ」の意味を真に理解せずとも(随所に散りばめられたパロディや小ネタなどを無視してしまっても)面白がることができる点で、他のパロディ漫画や不条理ギャグ漫画と比べて異彩を放っている。

・・・という論を展開したいのですが、参照しなければならない文献が多いので(ギャグ漫画の歴史を逐一たどる必要がある?)、一つの章をまとめるだけでも、完成は当分先になりそうです。

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先に述べたことの繰り返しになりますが、『日常』の感想を多く読んでいると、大抵の場合「その表現がいかに現実からかけ離れているか」という視点から、ストーリーが語られがちだということに気がつきます。

しかし、当たり前の話をすれば「漫画」は現実ではない(実在しない)わけで、特にリアリズムからかけ離れたギャグ漫画を読み解こうとする場合、そのような比較は不毛だと思うんですね。

それよりも、「笑い」のコンテクスト性、つまりは「ギャグの分かりやすさ/分かりにくさ」で物事を計った方が、いくぶんか有意義な読解をすることができるはずなのです。

(そしてこの考えは、ほかのギャグ漫画に対しても応用できると思います)

たとえば「日常の1」を例にとって見ていくと、開始2ページ目で見開きいっぱいに大爆発するロボ女子高生・なのの姿が見られます。

これは「非現実的」ですが、ギャグとしては「分かりやすい」ですよね。

視覚的な「爆発」の描写は、読者にとって奇異で驚きをもって受け入れられる表現ですし、それが「戦火の渦に巻き込まれていない街中」にて、「ロボット女子高生」が、漫画のベタな表現として知られる「男子高校生との衝突」によって引き起こされたとなれば、なおさらです。

笑いのツボは人それぞれなので、この描写が、どれだけ読み手の心を掴むかは計り得ないですが、少なくとも、「何やらえらいことが起きた」ことは理解できる、つまりこのギャグの表現は「分かりやすい」のです。

(続く)