お前はあらゆる頂上の深さである

今日はお前を私が読むだろう、そしてお前は私のなかで生きるだろう

あらゐけいいち『CITY』1巻:初出情報・単行本修正箇所・その他気付いたことなど(「第1話」~「第12話」)

 

CITY(1) (モーニング KC)

CITY(1) (モーニング KC)

 

 

(※4月9日情報追加)

 

表紙:南雲が棒付きキャンディを指に携えているのは、本作の構想段階において南雲が喫煙者であったことの名残り?(キャンディ棒を煙草に見立てている?)特に関係ないかもしれない

 

「モーニング」2016年44号

/第1話「人々のCITY」

作中時間:物語開始から第1日目(土曜日)午前10時13分~昼過ぎ

 

・雑誌掲載時作者コメント(未収録)

「はじめまして。あらゐけいいちです。最近ペン入れに入ると、座卓を持ち出し、部屋の至る所で描くなどをしております。まるで旅行先で描いている様な感覚に陥り、随分とリフレッシュしております。」

 

P1、1コマ目:孔雀系統の鳥。このデザインの初出は、2012年にあらゐ先生が販売した「夏休みTシャツ」に描かれている「陽気な孔雀」「気高い孔雀」だと思われる(現在は販売終了)。

 

P1、6コマ目:CITY商店街に登場する店の名前は、ほとんどが日本百名山から命名されている。「洋食マカベ」は真壁富士、「剣のうどん」は剣岳、「肉の聖」は聖岳から。

 

P2:ここで「洋食マカベ」の隣に建っている「(株)バナナ」は第12話にて本格的に登場する。あらゐ先生の別作品である商業版「Helvetica Standard」No.34、No.73にも、同じ名称の会社が登場している。『日常』7巻P149にも似たような会社が登場するが、こちらは「(有)バナナ」となっており、建物の形も異なる。

 

P2:単行本ではナレーションの吹き出しに隠れているが、「(株)バナナ」の上階に看板を出している店舗の名前は「リーチ麻雀谷川」と「プラモホビー スカ○(残り一文字不明)」。それぞれ日本百名山谷川岳と皇海(すかい)山から命名されていると考えられる。「スカ○」に関しては、実在の模型店「スカイホビー」から採られている可能性もある。

 

P2:「戸村牛書房」の名前は日本百名山トムラウシ山から。『日常』にも登場する桜井はじめの名前の描かれたポスターが貼られている。

「読んだ?」と書かれているポスターは、かつて新潮文庫が行っていたキャンペーン「Yonda?」が元ネタだと思われる。

「Yonda? CLUB」は今期をもって終了いたします。 | 新潮文庫メール アーカイブス | 新潮社

 

P3:「洋食マカベ」に「クモマドリ商店街クーポンキャンペーン」「エアコン冷えてます」の張り紙。第一話の時点では「バイト募集」のチラシが貼られているため、南雲がアルバイト店員として正式に採用され、南雲に制服が支給された後に張り替えられたと考えられる。つまり、このカラー口絵の場面は第1話から少し先の未来を描いていると推測される。

第10話P134に書かれている「ミタケカメラ 午月号」の表記から、第1話時点での作中時間は新暦の5月末~7月上旬であると推測できるが、「エアコン冷えてます」の張り紙があることから、このカラー口絵時点では本格的な夏を迎えていると言える?

 

・あらゐ先生が同人誌即売会COMITIAにて2006年ごろに頒布したペーパーにおいて、『日常』のキャラクターが一部のエピソードを除いて長袖制服を着続けていることに対してセルフツッコミを入れ、『日常』は常春の世界を描いているために常に長袖を着ているのだと理由付けを行っている。(2012年に放映されたクモマドリラジオの配信画像から確認。現物未入手のため、詳細は不明)

『CITY』と『日常』の物語世界が地続きであることは各場面から示唆されているが、この『日常』の「常春の世界」の季節が動き出し、『CITY』の作中時間では「夏」を迎えていることに、読み手側としては注意を払わなければならないのかもしれない。

※とはいえ、「コミック通信」に掲載された『日常』のショート漫画(『Helvetica Standard』収録)では季節のエピソードが盛り込まれていたり、アニメ版『日常』では全26話の放映を通して四季が流れていることが明確に示されていたりするので、「常春の世界」云々の設定は無かったことになっているのかもしれない。

 

P3:「安達太良ワイン」の名前は日本百名山安達太良山から。

 

P4:単行本化に際しての描きおろし。南雲の目覚まし時計が描かれているこのイラストや、P141~142での幕間ページでの時計のイラストの追加によって、本作が「CITY」内のとある一日の出来事を朝から晩まで時系列順に描いていることが強調されている。

 

P5、3コマ目:ヘドラ人形、初出はクモマドリラジオのイラストリクエストを受けて描かれたヘドラとフェっちゃんの絵を清書したもの

参考:

http://p.twpl.jp/show/orig/jaDV6

後に「少年エース」2016年2月号に掲載された『日常』番外編や「web日常」における作者自画像としても登場する

参考:

www.youtube.com

 

P5、4コマ目:スーパーマリオの「?ブロック」が置かれている。P19の4コマ目に描かれている東堂商会の家屋の中にもファミコン版準拠デザインの「スーパーキノコ」らしきものと一緒に「?ブロック」がある

 

P5、5コマ目:南雲が平らげた食事はブタメンBIGとラムネ缶?

 

P6、1コマ目:第5話に登場するモブの一人(第23話にて「蓼科神威」という名前だと判明、蓼科の姓は日本百名山蓼科山が由来だと思われる)が通行人として登場

 P6、1コマ目:「生活キャッシング シカクフク」はかつて実在した金融会社「株式会社マルフク」のパロディだと思われる。

 

P6、5コマ目:にーくらが左手に持っている袋は「TOMURAUSHI BOOK」(戸村牛書房)、第10話P134より朝一で写真雑誌「ミタケカメラ」を購入しに出掛けていたことが分かる

 

P10、1コマ目:指名手配犯の顔写真が第5話に登場するモブの一人(第8話にてマカベに来店した男性)?

 

P10、3コマ目:薬のカプセルに「FLY」の張り紙、かつてあらゐ先生が頒布した同人誌「細雪」の表紙イラストを意識している?

 

P15、4コマ目:「アベベ」=エチオピア出身の陸上競技選手アベベ・ビキラ。1960年のローマ五輪のマラソン競技に裸足で参加し、金メダルを獲得したことで話題に。南雲は常にスリッパサンダルを履いて行動しており、体育館で行うあらゆるスポーツを裸足でこなしていたことが14話にて明らかになる。

 

P28、4コマ目:「空木不動産」「火打」の名前はそれぞれ日本百名山空木岳火打山から。 

 

P29~30:幕間ページ追加、P30にて南雲がにーくらに仕掛けているプロレス技はブレーンバスターか

 

2016年45号

/第2話「南雲と新倉」

 

P32、6コマ目:履歴書の内容により、南雲は時定東高校を卒業していることが判明。第14話にて南雲はにーくらの在籍している高校から別の学校に転校している描写があることから、このときに時定東高校に移ったと考えられる

 

P34、1コマ目:第10話の描写から、にーくらが自分で撮ったブロッコリーを現像して壁に貼っている?

 

P36、3コマ目:「時定バッティングセンター」は『日常』7巻収録「日常のショート11」に登場したバッティングセンター?

 

P38、1コマ目:「スーパー大菩薩」の名前は日本百名山大菩薩嶺から。

 

P43~44:幕間ページ追加

 

2016年46号

/第3話「マカベ家」

 

P45、2コマ目:あらゐ先生の星座がやぎ座(12月29日生)だからか、立涌の他にも『日常』7巻P153にてゆっこの星座がやぎ座であることが明かされたり、「Helvetica Standard」No.73にてやぎ座の女性が星座占いのテレビを見ているなど、「やぎ座の登場人物」がたびたびよく登場する。

 

P45、3コマ目:「劇団テカリダケ」の名称が初登場、第19話と第24話に名前だけ登場する「光岳先輩」が立ちあげた劇団であること推測される

 

P45、5コマ目:単行本化に際して、まつりの顔が描き直されている

 

P46、3コマ目:雑誌「CITY誌」の名前が初登場

 

P48、4コマ目:笑いのツボに入った人物の後ろに壺が描かれる表現は、『日常』1巻収録「日常の6」でも見られる

 

P55~56:幕間ページ追加

 

 

2016年47号

/第4話「本官」

作中時間:第1日目(土曜日)午後3時ごろ (P64の南雲の時計より)

 

P57、2コマ目:イメージが何も浮かばない図は『まんが道』が元ネタ?特に関係ないかもしれない。

 

p59、1コマ目:「九重呉服店」「占い四阿」の名前はそれぞれ日本百名山九重山四阿山から。

 

P60、6コマ目:警官帽の鍔の裏に書かれた「ONE FOR HONKAN HONKAN FOR ONE」は、『日常』6巻収録「日常の94」のフェイ王国隊長の帽子に書かれた「ONE FOR ALL ALL FOR ONE」が念頭にある?

 

P64、1コマ目:森田まさのりろくでなしブルース」の口

参考:

「ろくでなしBLUES」作者の森田まさのり先生!その画風が確立されていく過程をチェック!! - Middle Edge(ミドルエッジ)

 

 

p67、2コマ目:「NEWモブ」は、「月刊ニュータイプ」誌2016年6月号掲載「ドーナツ研修」の登場人物と同じ?

 

P68、3コマ目:「高校サッカーリーグ五目杯」の張り紙、「五目」という単語は『日常』に登場する「囲碁サッカー」を意識して、囲碁ないしは五目並べから採っている? このサッカーリーグの様子は第16話にて描かれることになる

 

P69~70:幕間ページ追加

 

2016年48号

/第5話「御婆」

 

P71、3コマ目:蓼科神威が着用しているTシャツの「憧れのハワイ航路」は、1948年に岡晴夫が発表した同名の歌謡曲が元ネタか。Tシャツの裏面に書かれている「横浜―ホノルル―サンフランシスコ」は戦前のハワイ航路。

www.youtube.com

 4月2日に開催された『CITY』1巻発売記念のあらゐ先生サイン会でも会場で流されていたという情報をいただきました。

 

 

P75、7コマ目:御婆が目に見えない速度で16発攻撃を放つネタは『幽遊白書』の「一瞬で16回斬り付ける飛影」が元ネタ?

あるいは、1秒間に16連射する高橋名人が念頭にあるのかもしれない。

 

P76、3コマ目:地面に犯人の似顔絵を描くネタは同人版『Helvetica Standard』No.3のセルフオマージュ?

 

P76、5コマ目:南雲の私有物の本「最強の系譜」…出典不明、詳細をご存知の方があればお教えください。

 

P80、1コマ目:凶相を浮かべる御婆の表情は藤田和日郎漫画が元ネタ?

 

p82、5コマ目:電卓の名称「AMAKAZARI」は日本百名山雨飾山が由来だと思われる。「DNTK」はそのまま電卓。

P82、5コマ目:買い取り価格がマイナスになるネタは、同人版『Helvetica Standard』No.36のセルフオマージュ?

 

P83~84:幕間ページ追加

 

2016年49号

/第6話「泉わこ」

 

P86~89:あらゐ先生が同人誌即売会COMITIA100にて頒布した短編漫画「46-spring①」の冒頭場面のセルフオマージュ

 

P87、4コマ目:制服の校章である一つ眼のエンブレムは、商業版『HelveticaStandard』に登場する「目頭高校」のものによく似ている。何らかの関係があるのかもしれない。

第25話で鬼カマボコ先生が着用しているTシャツ「MONOEYE」とも関連性が見出せる?

 

 

P87、4コマ目:ここで描かれている二人の友人との交流は現在に至るまで続いていることが、第18話にて明らかになる

 

P87、5~7コマ目:河島英伍の歌謡曲「時代遅れ」の歌詞の引用

 

www.youtube.com

 

P87、5コマ目:「ラッコ正宗」、第8話P113~114でもドンペリの一種として「ラッコペリニョン」が登場するため、「ラッコ」シリーズが酒の銘柄として流通していると推測される

 

P90:あらゐ先生が前にアップロードしたイラストのセルフオマージュ

(参考):

祝詞 on Twitpic

神様 on Twitpic

P91、1コマ目:「現実とはとかくチビシーものなのである」は鬼カマボコ先生の作中作「落胆くん」に登場する台詞であることが第12話で明かされ、第17話でも再登場する

 

P93、1コマ目:南雲とにーくらも住んでいるアパート「モクメセイ荘」の名前が初登場。「モクメセイ」の由来は「木目生」、つまり『日常』の「相生」姓と関係がある可能性が高い。御婆は『日常』にも登場する「ゆっこ母」その人であり、第一話で遠方に出払っている描写のある真壁家の母親はゆっこ本人かもしれない?

 

P93、6コマ目:部屋に貼られているポスターの絵柄…詳細不明

 

P96~97:幕間ページ追加

 

 

2016年50号

/第7話「203号室」

 

P98~101:セリフが全面的に変更されている

初出時

P98、2コマ目

「しうかん

連載は」

「私にはやっぱり

無理なんです」

4コマ目

「センセーなら」

「出来まぁす」

6コマ目

「なにか

面白い話……」

「して下さい

…………」

P99、3コマ目

「…………

ひとつあります」

P101、6コマ目

「…………」

「ひとつあります…」

 

P99、1コマ目:鬼カマボコ先生の作中作「落胆くん」のキャラクタービジュアルが初登場。『日常』4巻17ページ3コマ目に描かれているキャラクターと同一人物?

https://pbs.twimg.com/media/C77SZnDVAAEUZl-.jpg

 

 

P105~106:幕間ページ追加

 

P111、6コマ目:南雲に対する「お前はピュアか!」という指摘は第10話P140でもくり返されることになる。

 

2016年51号

/第8話「固焼きそば」

 

P114、5コマ目:単行本化に際して、南雲の瞳にベタ塗り追加

 

P117~118:幕間ページ追加

 

 

2016年52号

/第9話「安達太良博士」

 

P119、7コマ目:安達太良博士の家に飾られているオブジェは岡本太郎の作品?関係ないかもしれない

 

P120、2コマ目:初出時は「安達太良博士(あだたたらはかせ)」と誤植されていた、単行本では修正済

https://pbs.twimg.com/media/CyMIsGYUsAAQUik.jpg

 

 

P122、1コマ目:南雲と真壁父の表情が描き直されている、雑誌掲載時では目を瞑っていない

 

P128、4コマ目:画面左端の「ののドクロ」のTシャツを着ている人物は、髪型から判断するに第12話に登場する週刊CITY誌の編集長か?

 

P129~130:幕間ページ追加、P131の1コマ目の「パープー」が豆腐屋のラッパ音であることがP130の描写によって補完されている

 

2017年1号

/第10話「夢」

作中時間:第一日目(土曜日)午後6時ごろ~8時前(P133、P141の時計より)

 

P133、1コマ目:タミル文字の数字が書かれた時計。この回以降、物語世界内の時刻を表すために度々登場することになる。 

P134、3コマ目:にーくらの購入した「ミタケカメラ」に「午月号」とある、午月は旧暦の5月を指していることから、作中の時間は新暦の5月末~7月上旬であると推測できる

 

P134、5コマ目:「マイケル・J・新倉」元ネタ未確認

 

P138、4コマ目:単行本化に際して描き直されている、雑誌掲載時の構図(南雲が右、にーくらが左)が単行本では左右反転して描かれている、視線誘導の問題?

 

P141~142:幕間ページ追加

 

2017年2・3号

第11話「指南」

作中時間:午後10時20分~夜更け 

 

P145、2コマ目:南雲の台詞微修正

初出時

「バカな!」

「そんな

ヘラブナ

顔が!!」

P152:宅配便の配達員の名前「足和田」は、山梨百名山の足和田山から。

P153~154:幕間ページ追加。ここでトラックに書かれているのは「どんぐり急便」。カバー見返しに書かれているCITYの土地が書かれた地図を参考すると、「どんぐり」の名称は他の建物の名前にも使用されていることが分かる。

 

2017年号4・5号

第12話「3人の編集」

 

・「あらまさん」 は元々あらゐ先生が運営していたホームページ kumomadori の企画から生み出されたキャラクター。 2010 年 9 月 28 日に、kumomadori 上に一枚のあら まさんのイラストがあらゐ先生によって投稿され、 「みんなのあらまさん目撃情報を応募しよう!」と題 してファンに募集をかけ、後日メールフォームから実 際に集まったあらまさんのキャラ設定を先生が実際 に描き起こすという試みが行われていた。

また「月刊ニュータイプ」2011年1月号より、「Helvetica Standard」に何度も登場を果たしている。

 

P162、3コマ目:「長野原大介」は『日常』に登場する長野原みおのペンネーム。『日常』でのみおは、BL雑誌「CIEL」(KADOKAWA)をもじった雑誌「AIEL」に漫画を投稿していたが、本作では「超ドメジャー」作家に転向している?

 

P162、5コマ目:「CITYの夜はふけていく」というナレーションによって、ちょうど単行本1巻分でCITYの朝から夜までを描き終えたことを改めて強調している。次回の第13話は、南雲が目覚める翌朝の場面から始まっている。

 

P163:幕間ページ追加

南雲とにーくらが行っているのは花札

 

カバー見返しの地図

・「祖母鉛筆」の名前は、日本百名山祖母山から。

・「今倉製紙」の名前は、山梨百名山の今倉山から。

・「荒島寺」の名前は、日本百名山荒島岳から。3巻収録分の宝の地図にも名前が登場している。

顕現としての「日常」が決して壊れえぬということ(後)

(前篇からの続きです)

 

 

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅳ」

Title:お便りの角度355°

……、

 

あらゐ先生に対する、悪性腫瘍のように肥大した、私の切実な夢想の風船は、ある日あっけなく弾け飛んでしまいました。

 

それは18歳、第一志望の大学に落ちて、浪人する気力もないまま、
適当に受験した後期試験に偶然に受かった、関西の地方大学に流れ着き意気消沈していた、

しかし以前から告知されていた、あらゐ先生が出展する「コミティア100」が近づくにつれて心浮つかせたりしていた、

あの2012年の春の出来事でした。

 

……、

 

徒手空拳で東京に乗り込み、『クイックジャパン』で少しだけ写っていた御姿と同じ出で立ちをした、「神」の姿を照覧したときの心境は、本当に『まんが道』立志編そのものでした。

 

「こ、これが本物のあらゐけいいちだ!!」
「あのあらゐけいいちが、今、目の前にいる!!」

 

満賀道雄才野茂が初めて手塚先生に逢ったときのナレーションが、突として私の脳内で流れるやいなや、

私の身体は硬直して動けなくなり、半ば意識を失い、
次に目がさめたときには購入した同人誌とサイン本を片手に、隣接していた献血スペースで血を抜いてもらっていました。

 

(そのせいで会場から早々と退散してしまい、会場を訪れていたクモマドリマスター・石仮面氏の姿を拝み損ねたのが、ひとつ心残りだったりします。)


人の言葉と意識というものは本当に脆いもので、色々と言いたいことがあったはずの私は、しどろもどろになってしまい、

「とにかく『日常』が私の人生に与えた影響は計り知れない」
旨の言葉を早口でボソボソと、不審者の態度でもって伝えることしかできませんでした。


私の想いはそんなありきたりの言葉で表す事が出来ないというのに!

 

しかし、先に書いたような、あらゐ先生に向けての言葉をすべて口に出そうとすれば、ちょっと暑さで頭がやられた人のように思われてしまうでしょうから、
その想いを表現し切れずに、言葉を詰まらせていたあの醜態は、世間体を考えれば、ちょうどよかったのかもしれません。

 

……、

 

何度も思い返しているにもかかわらず、あまりにも夢心地だったので、その記憶に関してははっきりと思い浮かべることができなくて、

私があらゐ先生のもとを訪ねたのは「夢」だったのではないか? と、時おり錯覚することがあります。


そして、気が気でなくなった私は、ちょうど異世界からの冒険を終えて現実世界に帰ってきた旅人がそうするように、
「あの世界」が確かに存在したことを証明するグッズ、「戦利品」である購入物を手にとって、自身の正気に嘘偽りがないことを確かめる日々が、しばらくのあいだ続いたのでした。


あの時に知った、得がたい感覚。


人は幸福を極めると、その感情の重さに耐えきれないためか、腹部がキリキリと痛み始めるという発見が、そのときありました。

 

いくら美味い食事も過度に摂取してしまっては腹を下してしまいます。
思うに、それは感情にとっても同様なのであり、幸せを享受しすぎた私は、腸がねじ切れるような痛みを抱え、
帰りの夜行バスのなかで、夜もすがら呻き声を発していたのでした。

 

しかし、それ以上に私にとって衝撃的だったのは、
雲の上の存在に思えた「あらゐ先生」が、私と変わらぬ人間として、そこに存在していたこと、「それ自体」でした。

 

「私はあらゐ先生にはなれない」
「だからこそ、しっかりしなければならない」

 

そのとき不意に私の頭を訪れた、啓示に似たそのメッセージに対して、私は応えることができていません。

 

しかし、あの日の日本晴れの天気と相まってあまりにも眩しく感じられる、「神」もとい「大好きな漫画家」に実際に逢ったという感覚は、
長いあいだ私の身体のなかに尾を引いて残っていた、胸を掻きむしりたくなるような鼓動と動悸ばかりでなく、

私が善い方向に変わるための、確かなきっかけとして、今でも魂の内奥から私に働きかけてくるように思います。

 

……(次でラストです)

 

 


HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅴ」

Title:お便りの角度385°

……、

 

私はノスタルジアを通して貴重なものごとを再発見する。
そしてその仕方によって、私はなにものも失なうことがないと、
なにものもかつて失なわれたことはないと感じるのだ。

なにものも失なわれない。
つまりは、遺恨(リゼントメント)の鋭い力を決して感じることがないということだ。

ミーチャ・エリアーデ『迷路の中の神裁』

 

……、

 

私が今の私の名前をハンドルネームとして用いるようになり、行先不明の手紙を送らせていただくようになったのは、コミティア100を訪れた年の秋に行われたラジオからのことです。

 

それ以後、もしかして迷惑をかけていないだろうか……と憂慮しながらも、今読んでいただいているこの手紙がそうであるように、怪文書じみた長文を多く投稿させていただいております。

(何か不都合があれば、こっそり教えていただけると幸いです)

 

……、

 

あれから更に年月は流れ、私は大学を卒業し、人文系の大学院に進学することになりました。
しかし私のあらゐけいいち漫画に対する熱い思いは、未だに冷めやらぬままでいます。

 

変わったことといえば、あの『日常』が、10巻発売を機に完結を迎えたことくらいでしょうか。


昨年の8月の終わり、『日常』の連載が終了するという情報を目にしたとき、ひとつの想いが私の頭に去来したことをよく覚えています。

しかし、このとき私の抱いた想念は、このとき先生の愛読者の多くが抱いていたであろう、好きな作品との別れをただ惜しむ気持ちとは、少し毛色の言なる性質を備えてもいたのでした。

 

「渡りに船」

 

当時はきちんと言語化できていなかったのですが、今になって振り返ってみると、動揺と混乱を取り繕おうとする表面上の平静さの裏で私は、
確かにこの一言を想い浮かべていたように思います。

 

「渡りに船」?いったい何に対して渡りに船なのか?

それはもちろん、『日常』の連載終了が、私にとって「渡りに船」に思われたのである。

 

どうして『日常』の連載終了が、私にとっての「渡りに船」だったのか?実は『日常』のことが嫌いだったのか?

嫌いだなんてとんでもない!
手前味噌ながら、これほどまでに痛切に、真摯に、『日常』ひいてはあらゐ先生の漫画について読み込んでいる人間は、そうは居ないと自負しているつもりである!

 

言葉でこの感情を言い表せるものなら何度でも唱えてやる、好きだ、好きだ、好きだ、大好きだ!

 

でも!好きだからこそ!


私はちょうど昨年ごろから、好きで好きでたまらない、だからこそ、それゆえに、『日常』と少し距離を置かなければならない、という気持ちをどこか心の片隅に抱いたまま暮らしていたのでした。

ですから、その矢先でこの報を聞き付けた私は、ちょうど『日常』から離れられる、「渡りに船」である!と考えたわけなのでした。

 

好きだからこそ距離を取らなければならない、別れなければならない、などと書くと、ひと昔前の陳腐なメロドラマのように聞こえ、理解されがたく思われるかもしれません。

しかし私はいつでも大真面目です。


私にとって『日常』は青春そのものでした。
しかし、人はいずれ青春から退いて、若者のふわふわとした夢想とは無縁の、着実たる生活を歩み始める必要があります。

だから私は、そう遠くない将来、『日常』と何らかの形で結着をつけなければならない、そのように考えるようになっていたのでした。
『日常』と決別すること、すなわちそれは私にとって、自分自身の青春に終止符を打つことにほかなりません。

 

私は大人にならなければならない。少なくとも大人への道を歩み始めなければならない。
そのためには『日常』と距離を置く必要がある!

 

青臭く、そして論理性を欠いていると思われるかもしれませんが、今でも私はこのように考えています。

 

……、

 

『日常』と距離を置く、とは単に作品を読まないでおく、ということを意味しているのではありません。
それだけで済ますことができるのならば、このような長文をわざわざ書こうと思い立つことはなかったでしょう。

 

そうではないからこそ、これだけ長いあいだ熱を籠めて読み続けてこられたわけですし、

感受性豊かな若い時代に育まれた、人生の習慣としての『日常』の読書を、今になって取りやめることは難しいように思われます。

 

そこで私は、むしろこれまでよりも深く『日常』に関わり、同時に深く肩入れしない態度を採ることによって、今一度だけ先生の作品に向き合うことを考えたのでした。

 

早い話が、私は『日常』やあらゐ先生についての評論を書くことによって、今よりも相対的に、あらゐ先生の作品を読解しようと考えています。


私は先の手紙のなかで、『日常』は私にとっての「啓典」であり、「呪い」であると喩えました。

だとすれば、これから私は「伝道師」として、「啓典」としての『日常』を説くための行脚に赴かなければならないでしょうし、

かつ「魔術師」として、「呪い」としての『日常』を解くための修業に出向かなければならないでしょう。

 

これは誰かのために行うのではなく、あくまで自分自身との決着のため、一つの時代に区切りをつけるために行われる、ごくごく個人的な決意です。

 

とはいえ、このような大役を、果たして私は全うすることができるのか?

甚だ疑問が残るところではありますが、とにかく思考錯誤を繰り返してみて、もし結果として形に遺すことができたのならば、憚りながら、世間に公表してみたいと考えています。

 

……、

 

「私は『日常』と出逢うために生まれてきた」

このような大それた言葉を、決して冗談で使っていないことは、ここまで読んでくださった方々には、理解していただけるかと思います。

 

『日常』の連載が終わった今、私の期待は目下のところあらゐ先生の新作にばかり注がれているのですが、

このまま受動的に待機しているばかりでは、主に自分のためによくないのでは、と考えています。

 

そんなとき、私の脳裏に思い浮かぶのは、やはり先生の作品の言葉でした。

 

誰も振り向いてくれなくてもいいんだ。
少しの心が満たされれば、私は棘の道を歩もう。」

 

あらゐ先生が書いた唯一の小説作品とも言える掌編、「ジョン・マック・ウェアー」の物語は、ジョンが言葉少なに、しかし雄弁に、

「やりたいことをやればいいじゃないか、たとえその道が過酷であろうとも」

と、作中の語り部である「私」、つまりはあらゐ先生本人を鼓舞するような文章で埋められています。

私は多くのあらゐ先生の作品とともに、ジョンの言葉を胸に刻んでいるのですが、その理由としては特に、「自分の心さえ満たされれば、他の誰の同意も要らない」と述べる、この確固たる決意に惹かれます。

 

今後の私が行うこと、行おうととしていること、ひいては私という存在の一切合切は、他の誰かを喜ばせるようなものでないのかもしれません。

 

しかし私は、彼と「ヒマラヤイルカ」作品から読み取った唯心論を信じて、己を満たすような生き方を、ささやかながら、実行していきたいと思っています。


……、

 

話がいささか飛躍してきたので、この辺りで筆を置くことにします。

 

願わくば、この一連の文章を書き終えたときに舞い降りた高揚感、そしてあらゐ先生の本を読み終えたときに訪れる清らかな感情が、

少しでも私のなかで持続し続け、私が今後おこなうであろう行動に、善いものをもたらしますように。

 

そう祈らずにはいられません。

ひとまずは、さらなる学をつけて、この場所に帰ってきたいと思います。

次回のラジオも期待しております。

 

長くなりましたが、ではでは。

顕現としての「日常」が決して壊れえぬということ(前)

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅰ」

Title:お便りの角度316°

……、

 

夢想家の若い少年がそれまで抱え持っていた、未熟な人生観をたやすく打ちのめしてしまう、
それを知ってしまったが最後、情熱を注ぎ、憂き身をやつし、傾倒し、焦がれ、望み、求め、貪らずにはいられない、
その生涯を決定づけるほどの大きな啓示をもたらす、「魂」に根ざした一冊の啓典。

 

そのような書物は確かに存在するのであり、私にとってその作品にあたるのが、あらゐけいいち先生の『日常』1巻でした。


たかだか漫画の一作品に、大げさだと思われるでしょうか?

しかし、私の心境を正確に書き起こそうとするのなら、これしきの形容では大げさどころか、むしろ不足しているように思われるのです。

 

そんな『日常』1巻を初めて読み終えたときに見た、特別な景色は、今でも目蓋の裏側にはっきりと焼きついています。
それはいつかの年の夏休み、もう少しで14歳の誕生日を迎えることになる私が、深夜アニメなどを観はじめてまもない頃に起きたセカンドインパクト体験だったのでした。

 

……、

 

矢継ぎ早に繰り出されるエピソードにぐいと意識を引き寄せられ、
まじろぎひとつせず、比喩ではなく、本当にページをめくる手が止まらなくなってしまった在りし日の私。
そのような、なかば夢心地の状態にあった意識が回復したのは、

 

「コケ機能なる装置をそなえたロボット女子高生の足からジェットの炎が噴き出し」
「直立した姿勢のまま開発者の研究所の屋根を突き破って大空に飛び立つ」

 

という、思わず目の覚めるような最後のページをめくって、少し経ってからのことでした。

 

単行本の裏表紙に載っている青髪の女子高生、彼女のあっけからんとした微笑を呆然と眺めやり、
本を表返すといやでも目につく異様な存在、学習机の上に立っている鹿のつぶらな瞳と視線をかち合わせる私。

 

今一度本を開き、目次絵の少女の青い瞳のなかに描かれた「日常」の二文字を視認し、
ふたたび最後のページに描かれている、空に飛び立つロボット少女の驚きに澄んだ瞳を見つめる私。

 

ふと正気に返ると、私の身体は、二種類の激甚なる、叫びたいような感情で充ちていることに気がつきました。

 

ひとつは、「こんなマンガが世の中にあっていいのか!!」という驚愕。
ひとつは、「こんな面白いマンガが世の中にあったのか!!」という感動。

 

そして急いで読み返し、最後のページに辿り着くとやはり、その面白さから茫然自失となり、しかし今度は、

「ちょっと待って!よく考えたらコケてないじゃん!飛んじゃってるよこの女の子!!」

と、摩訶不思議なエピソードに対して、ツッコミを入れる余裕を見せたりしたのでした。


……(続きます)

 

 

 

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅱ」

Title:お便りの角度330°

……、

 

「これまで前例のなかった作品であり、かつ前例がないほど面白い作品である。」
これが『日常』というマンガに対して、今に至るまで変わることなく抱き続けている想いです。

 

さて、私は随分と長いあいだ、この作品に魅了され、感化され、インスピレーションを受けて育ってきました。
私の手元にはいつも『日常』があり、飽きが来ないことに自分でも驚きながら、数えきれないくらい読み返してきました。

 

今後の人生で、これほどまでに心を奪われ、夢中になることのできる作品に出会うことはもうないのかもしれない。
そう考えると、大好きな物語を読み終えてしまうときに感じる、あの寂しさとはまた別の、熱く激しい情念が腹の底からふつふつと沸き上がってくるようなのでした。

 

今や私の精神には、あらゐ先生の作品がトラウマ体験のように強く深く根づいています。
今や私の肉体には、『日常』の物語が稠密な刺青のように強く深く刻みこまれています。

それゆえに私の思想の多くは『日常』によって生まれ、また私の思想の多くは『日常』に行き着きます。

 

『日常』とは私にとっての存在基盤であり、私にとっての大地であるとともに、大地の恵みでもあったのでした。

(くどいようですが、これは誇張表現ではなく、「事実」の列挙なのです。)

 

……、

 

少し前のネットスラングに、「○○は神」という言葉があります。
しかし私は、もっと重たい意味で、大真面目に、「あらゐ先生は神」と信仰してきました。

私は一回の読書体験によって「二度目の生」を授かり、生まれ変わったのです。
少なくとも、これまで私はそのように信じて振る舞ってきました。


あるいは、より正確に、また誤解をおそれずに表現するのなら、
私は『日常』およびあらゐけいいち先生の諸作品に「呪われ」続けてきた、と書くべきなのかもしれません。
それほどまでに強い影響を受けながら、私は年を重ねていったのでした。


そんな私があらゐ先生と『日常』に対して深い感情を抱くようになったのは、ごく自然の成り行きであったのだと言えるでしょう。


……(続きます)

 

HN:「懐かしいゼウスへの手紙Ⅲ」

Title:お便りの角度342°

……、

 

今日に至るまで、あまりにもバカバカしいので、誰にも言ったことはありませんでしたが、今この場で告白してしまいましょう。
私にはすでに破れてしまった、ひとつの夢がありました。

 

というのは、私は心の底から、三歳になったばかりの幼児が「ウルトラマンになりたい」と望むのと同じ切実さで、
「あらゐ先生になりたい」と思い憧れ、中高生の鬱屈した時期を過ごしてきたのです。

 

振り返ってみて少し猟奇的だと思うのは、あらゐ先生「みたいに」なりたい、あるいは、あらゐ先生「のような漫画を描きたい」と願うのではなく、
ただひたすらに、「あらゐ先生になりたい」と考えていたところでしょうか。

 

当時の私が切に求めていたのは、『日常』という一筋縄ではいかない漫画作品、そして私を魅了してやまないあらゐ先生のイラストに対する、さらなる理解でした。

『日常』はすでに私のなかで啓典と化していましたから、ただ純粋に、より深く読解したかったのです。

 

ただ、面白さの真髄、内奥の奥の奥の奥にまで辿りついてみたかった。
それを言語にして誰かに説明してみたかった。

 

ご存知の通り、あらゐ先生の作品には、「わかりやすいギャグ(登場人物のドタバタ劇など)」から「わかりにくいギャグ(パロディ)」まで、万遍なく敷き詰められている、という特徴があります。

もちろん、「わかりやすいギャグ」だけでも充分に楽しめるのですが、私は先生の提示するギャグをすべて汲み尽してみたい、と次第に望むようになっていました。

 

しかし当時の私は、まだ深く読解するための学が、まったくと言っていいほど追いついていません。
まだあらゆる意味で読書経験が浅く、今にもまして未熟だった中高生の自分。

 

「何やら面白いことが作品のなかで起こっていること」は痛いほど分かるのだが、その正体を掴むことができない。
そのことが、もどかしくてたまらなかったのでした。

何よりも、なぜ私がここまで『日常』に肩入れしているのか、その理由さえ分からない。

 

「面白さの秘密を知りたい!」

「逆に、何が面白いのか具体的に理解することができれば、私は『日常』の面白さを、より正確に、誰かに伝えることができるだろう!」

 

そのためには、「あらゐ先生ご本人になる」のが、もっとも手っ取り早いのではないか!
「あらゐ先生になる」!そうすれば、先生の漫画のすべてを知ることができる!

そのような飛躍した理論を、私は本気で信望していました。

 

……、

 

まったくもって当たり前の話ですが、人は「誰か別の存在」になり変わることはできません。
(絶対的な他者と自分との関係については、あらゐ先生の同人作品でも繰り返し言及されていますね)

 

いかに憧れていようと、自分と他人は別モノである。
しかし、物心がついたころには知っていなければならないこの事実を、本当の意味で悟ったのは、
なんと私が大学生になってからのことでした。

 

私は「あらゐ先生になること」はできない。
私が青年になるころに経験することになる、当然すぎる結果である、この挫折の感覚。

 

しかし何事にものめり込むことなく、逃げてばかりだった私が初めて味わった現実との齟齬は、

同時に私が子供であり続けることを拒み、精神的な成熟へと導く担い手として、私の背中を力強く押していくようにも感じられたのでした。

 

……(もう少しだけ続きます)

 

 

あらゐけいいち『日常』論(仮題)についてのメモ

はじめに

◯「脱日常」して考える『日常』の話

あらゐけいいち先生の漫画『日常』の感想を述べる人は、十中八九、「シュール」「日常/非日常」の二語を用いて話を進めています。

つまり『日常』の語り口は、「絵柄がかわいい・独特」みたいな意見を除けば、

・シュールギャグとして云々

・日常系の作品(あるいは読者自身の日常生活)に比して云々

この2パターンに大別される、ということです。

しかし、このアプローチの仕方は「もっともだ」と思う一方で、「実は何も語れていないのではないか」、と最近になって考えるようになりました。

なぜなら、「シュール」「日常/非日常」はそれぞれ曖昧な概念であり、個々人のあいだに大きな認識のズレが存在するからです。

もし本気で「シュール」「日常」を絡めて何かを論じるのであれば、先に膨大な文量(それこそ論文が一本書けてしまうくらいの量)を費やして、それらの単語を定義する必要があるでしょう。

しかし多くの人は、「主観的に見て」よく分からないことにシュールのレッテルを貼り、「主観的に見て」ありふれたことを気軽に日常と言い定めているのです。

これでは一般性に欠けた考察しか行うことができません。

・・・・・・、

現在の漫画・アニメ論は話がとっ散らかっており、本来ならば分別すべき作品が十把一からげに「シュールギャグ漫画」として扱われている状況です。

また、「日常系」の解釈については、もはや体をなしていないといっても過言ではありません。

(海外では、“Slice Of Life”という全く別の尺度で「日常系」作品が類別されていたりして、「日常」という言葉がいかに各々のローカルルールに依っているかが分かると思います)

思うに、漫画『日常』を読んだ人、特にアニメ『日常』から本作を視聴し始めた人の多くは、この「日常」というタイトルに感想を引っ張られすぎていると思うんですよね。

1巻では笹原先輩が「私達が過ごしている日常とは奇跡の連続かもしれん」と説き、アニメ版では25話にて、みおの回想として再びこの言葉が登場します。

最近では、日常×巻の巻末コメント(日常2巻発売直後に開催されたサイン会で配布された「あとがき」の再収録です)にて、あらゐ先生本人から、「日常」という語についての見解を読み解くことができます。

なるほど、これだけを見れば、「日常」という言葉が、いかにも神秘的で、ストーリーの核心に迫るキーワードであるかのように思えることでしょう。

「特別でない、ありきたりの出来事」の積み重ねから生まれる「日常」、しかし、そのような「ありきたりの日常」を過ごす日々こそが、実は「特別」であったのだ。

と語る笹原先輩の弁。

少年の頃過ごした「特別な日々」、もしも、あの日々に慣れ親しんでいたのなら、「特別な日々」は「日常」に変わっていたのだろうか。

そして「特別な日々」を送っているように見える『日常』のキャラクターが、われわれにとっての「日常」に変わる日はやって来るのだろうか。

と述べるあらゐ先生の弁。

この二つの論の展開は、いかにもロマンティシズムに溢れており、感動を覚えずにはいられません。

しかし、真の意味で『日常』という作品を読み解こうとするのであれば、このような、感情に絆されるような読み方に甘んじていてはいけないと思うのです。

ロマン主義的なものの見方とは、得てして「そこに存在しないもの」に「超越性(トランセンデンス)」を見出すことで、逆説的に「理想的な存在を喚起させる」企てのことを指していいます。

つまり、身も蓋もないことを言ってしまえば、そこに「ロマン」を感じるのだとすれば、その中身はかならず「空っぽ」だということです。

だから、われわれは、「日常」というロマン溢れる「空っぽ」の語から離れて、もっと即物的に、目の前に確かに存在する作品批評に力を注がなければならないのです。

『日常』について考えるには、まさに「日常」という概念から脱しなければならないのです。

・・・・・・、

要は「シュール」「日常」という概念は、他人と意味を共有しにくいので、使用を避けた方が賢明だという話です。

そこで今回の評論では、この二語を使わずに、『日常』の魅力、ひいてはあらゐ先生の漫画についての考察を行うことにする、

といった発想が、ひとまずの出発点になります。

・・・・・・、

いくつか章立てをして本論は進めていく予定でいます。

おそらく一番最初にまとめるであろう論旨は、『日常』における「笑い」と「コンテクスト(文脈)」についての話です。

これは平たく言うと

『日常』は、

・登場人物の激しい動きや変顔、丁寧な説明などの「分かりやすいギャグ」

・高度なパロディや飛躍したツッコミの論理、天丼ネタなどの「分かりにくいギャグ」

が混在しているが、

このような「ローコンテクストな笑い」と「ハイコンテクストな笑い」が入り混じり、かつ両立しているギャグ漫画って、実は古今東西を見渡しても類を見ないのではないか?という主張です。

多くのギャグ漫画は、その笑いの種類から「分かりやすいギャグ漫画」「分かりにくいギャグ漫画」に割り振ることができるが、『日常』はその「どちらでもある」点で特異である。

また『日常』は、「分かりにくいギャグ」の意味を真に理解せずとも(随所に散りばめられたパロディや小ネタなどを無視してしまっても)面白がることができる点で、他のパロディ漫画や不条理ギャグ漫画と比べて異彩を放っている。

・・・という論を展開したいのですが、参照しなければならない文献が多いので(ギャグ漫画の歴史を逐一たどる必要がある?)、一つの章をまとめるだけでも、完成は当分先になりそうです。

・・・・・・、

先に述べたことの繰り返しになりますが、『日常』の感想を多く読んでいると、大抵の場合「その表現がいかに現実からかけ離れているか」という視点から、ストーリーが語られがちだということに気がつきます。

しかし、当たり前の話をすれば「漫画」は現実ではない(実在しない)わけで、特にリアリズムからかけ離れたギャグ漫画を読み解こうとする場合、そのような比較は不毛だと思うんですね。

それよりも、「笑い」のコンテクスト性、つまりは「ギャグの分かりやすさ/分かりにくさ」で物事を計った方が、いくぶんか有意義な読解をすることができるはずなのです。

(そしてこの考えは、ほかのギャグ漫画に対しても応用できると思います)

たとえば「日常の1」を例にとって見ていくと、開始2ページ目で見開きいっぱいに大爆発するロボ女子高生・なのの姿が見られます。

これは「非現実的」ですが、ギャグとしては「分かりやすい」ですよね。

視覚的な「爆発」の描写は、読者にとって奇異で驚きをもって受け入れられる表現ですし、それが「戦火の渦に巻き込まれていない街中」にて、「ロボット女子高生」が、漫画のベタな表現として知られる「男子高校生との衝突」によって引き起こされたとなれば、なおさらです。

笑いのツボは人それぞれなので、この描写が、どれだけ読み手の心を掴むかは計り得ないですが、少なくとも、「何やらえらいことが起きた」ことは理解できる、つまりこのギャグの表現は「分かりやすい」のです。

(続く)

「今度は僕が書き取られるであろう。僕はまさに移調されんとする印象なのだ」

5月に読んでとくに面白かった本についての感想やメモ
 
 
・『夜露死苦現代詩』:都築響一
 
・『ヒストリエ』9巻:岩明均
 
・『空と夢』ガストン=バシュラール
 
・『スクールアーキテクト』1巻:器械
 
 
 
 
 
 
 
 
①『夜露死苦現代詩』
 
認知症の老人の言葉やエロサイトの文面を一種のアウトサイダーな「自由詩」として紹介していて、考現学風の読み物として純粋に面白い。
 
そして本書は取り上げる文章がいちいち秀逸である。
 
論より証拠、まずは以下の「詩」に目を通してほしい。
 
 
 
!!!ハリケーン・ラブラブ・ファッキング・プッシーズ!!!
!混浴エロスでMVP級!!!
!密着エロスでGOD級!!!
!口撃エロスでBIG級!!!
!爆乳エロスでGET級!!!
!美乳エロスでVIP級!!!
!相互エロスでMAT級!!!
!舐舐エロスでLIP級!!!
!純肉エロスでFAT級!!!
!情熱エロスでHOT級!!!
!激写エロスでSOS級!!!
!!!FUCK!!FUCK!!FUCK!!FUCK!!!!
 
どうだろうか。
 
低俗なスパム広告と一蹴するのは簡単だ。
 
だがその前に一瞬、ほんの一瞬だけ踏みとどまって、この言葉を「感じて」みてほしい。できれば音読してみてほしい。
 
かくもグルーヴ感に満ち溢れた「現代詩」、「声に出して読みたい日本語」は、歴史を通してみても類を見ないという、厳然たる事実に思い当たるはずである。
 
私はこの「現代詩」を読んだとき、『ヴァリス』の「聖なるものは一番期待していないところに侵入する」というフレーズを連想してしまった。
 
「詩」が世間に際して力を失って久しい。もはや死に体であると囁かれても、誰も疑う者はない。
しかし、見方を変えれば、現代詩は思いもよらぬところ、たとえばアダルトサイトで芽吹きつつあるのだ。
 
私はこの初々しい芽を、一読者として、初々しい心でもって応援していきたいと思う。
 
・・・・・・
 
これは極端な「搦め手」の文章であるが、他にも「刑の執行される間際に綴った死刑囚の俳句」「苦吟して練り上げた暴走族やラッパーのフレーズ」など、ただ珍奇なだけでなく、本当に読者の心を鷲掴みにするような文章も多く収録されている。
 
本書に収録されているのは、どれも名声に裏打ちされない、無価値な言葉の羅列である。
 
しかし、名声の価値が下落した現代においては、彼らの文章こそが真に世相を反映した「詩」になり得る可能性を秘めているのだ。
 
 
無論、狂気じみた文章をただ面白おかしく取り挙げるだけなら、まとめサイトでも充分に役目を果たせるだろう。
 
ゆえに本書の真の価値は、従来の解釈学的なアプローチに満足することなく、文章に込められた文学的な「意味」を発見し、評価しようとした執筆態度にあるのだと言えよう。
 
 
・・・・・・
 
 
(余談)
最近、本書の続編が執筆され始めたようで、主に地下で活躍しているラッパーに取材を重ねるなど、著者は精力的に活動しているようである。
 
しかし個人的には、本書が刊行されてからの10年間でネット上に氾濫するようになった、「薬物をキメたように饒舌で狂気じみたコピペやツイート」に焦点を当てて特集してもらいたいと思う。
 
文章の匿名性という性質上、取材を通したその本懐の究明は難しいのかもしれない。
 
それでも、学のあるネットライターの「釣り文章」から本物のキ印めいた人々の「告白録」まで、雑多な人々が書き殴った各種の文書は、昨今の文化を語る上で外せないものだと思う。
 
たとえば、今でも私の心を捉えて離さないのは、例のルイズコピペである。 

 


ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!! あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!! あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!! 間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!! 小説11巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!! アニメ2期決まって良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ! コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!! ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら… ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!! そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!! この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる? 表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!! アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ! いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!! あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!! あっあんああっああんあアン様ぁあ!!セ、セイバー!!シャナぁああああああ!!!ヴィルヘルミナぁあああ!! ううっうぅうう!!俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!



「気持ち悪い」と囁かれる、他の「美少女キャラクターに捧げる愛の唄」系統のコピペに比べても、これは傑出した出来だと言えるだろう。


この魅力はどこに由来するのだろうか?
 
詩を味わうようにして、この難題にいつか取り組んでみたいと思う。
 
 
(余談2)
ふたば発のテンプレート「KOUSHIROU」は、著作者の匿名性も相まって「狂える叙事詩」と化しているので、未読の方は是非。
 
 
 
 
 
②『ヒストリエ』9巻
 
漫画を名作たらしめる必要条件は、「願望充足」と「現前性」、相反する二つの要素を融合させる魔術的技量に懸かっているだと思う。
 
そして本書の魅力もまた、伝記/軍記としての秀逸さの以前に、ともすれば陳腐になりかねないヒロイズムを圧倒的な人物造型によって成立させている点にある。
 
・・・・・・
 
今巻の特筆すべき部分は、言うまでもなくカロンとの再会であろう。
 
自由を手にした二人が今度は擬似的な父子関係となり、また同時に敵対関係になる。しかし双方ともに心境は晴れやかだ。
 
現代のヒューマニズムでは窺い知れない、袂を分かつことによって却って堅く結ばれた両者の関係性が読者の胸を打つ。
 
 
「新刊の発売されるペースがおそろしく遅いので、普段は物語の仔細な展開はおろか存在そのものを忘れてしまっているが、それを補って余りあるほど面白いために、購入のたびに全巻を読み直す羽目になり、感動を新たにすることができる」名作漫画の筆頭であるが、今までがそうであったように、彼らの成長と変化を見届けることができるだけでも、待つ甲斐があったと言えよう。
 
・・・・・・ 
 
(余談)
 
かつて私が患った厨二病的症候のうち、『ねじまき鳥クロニクル』の影響で暗闇のなかに閉じ籠ったり『バガボンド』の胤舜を真似て友人と“命のやりとり”をしたりしたのは、第三者の目に晒されていない分まだ耐えられるのだが、エウネメスに憧れて賢ぶった時期があったのは間違いなく“黒歴史”であり思い出すと身悶えしてしまう...“ヒストリエ”だけに...。
 
 
 
 
 
③『空と夢』
 
「詩人は火・水・空・大地の“四大属性”に分けられる...本書では空にまつわる想像力を取り扱う...」という厨二エッセンス満載の序論に魅入る。
 
世界が意志の力によって矯正され続けるのだとすれば、ただ想像的なものだけが辛うじて人を永遠に救うことが出来るのだろうか。
 
中期以降の大江健三郎が人物の神話的原型を強く意識する作風になった原因の一翼を、本書が担っているのは想像に難くないが、「雨の木」の着想などが本書の孫引きであることを鑑みるに、与えた影響は本当に大きかったのかもしれない。
 
 
 
④『スクールアーキテクト』
 
倫理的に誤った選択=自己犠牲によって特定の個人を救おうととする、ゼロ年代決断主義の「美談」が新鮮味を失って久しい。
 
しかしこの流れが途絶えないということは、それだけの需要があるということなのだろう。
 
今回もまた、世界や人類を天秤にかけて(本書の場合その規模は友人若干名の意識のみという小規模なものであるが)、世界改変の能力を行使する。
 
世界改変の担い手が心情の交錯によって入れ替わる展開などは、『まどか☆マギカ叛逆編』そのままなのであるが、雑誌きらら系統の萌え4コマのフォーマット上で繰り広げられるせいか、新鮮味を帯びて感じられた。
 
単巻だけでも十分に完成度が高いが、続きが今一番気になる作品のひとつでもある。
 
 
 
 
⑤『アリスと蔵六』5巻
 
今井哲也漫画に共通するある種の「もっともらしさ」、漫画としてのリアリティは、もっぱら人物間のディスコミュニケーションに起因していると考える。
 
反りの合わない相手とは最後まで分かり合えず、仲良しグループの和は最後まで崩れない。
 
登場人物は寡黙というわけではない。しかし、率先して意思疎通を図ろうとする人物がいないのである。
 
たとえば「お節介」な人物。
凡百の漫画ならば、1人ぐらい「誰かの世話を焼く」キャラクターがいるのが普通だろう。他人に関わろうとする人物がいなければ、物語が立ち回らないからだ。しかし、今井先生の漫画はどこまでも人物関係が希薄である。
 
 
 
・・・・・・
 
登場人物の関係性が一切変化しない。
中身のない凡庸な物語ならいざ知らず、ドラマティックな展開を多く含んだ作品においてこれほどまでに「人と人とが分かり合えない」展開に誘導されるのは、はっきり言って「特異」である。
 
この傾向は『ハックス!』に顕著であるが、実際にはデビュー作である『トラベラー』から最新作『アリスと蔵六』まで一貫している大きな特徴である。
 
 
面白いのは、登場人物のディスコミュニケーションが、あくまで「同じ立場(同年代・同じ境遇・同じ能力者)」の「人間」に限られている点であろう。 /
 
立場の違う存在(子に対する親・人間でない知的存在など)とは対立を経て和解し、新たな関係性を創出しているのである。
 
普通の漫画ならば、同じ立場の存在(友人・仲間・運命共同体など)と協力して、立場の違う「相容れない存在」との対峙・葛藤・克服するという展開に持っていくのが定石だろう。
 
しかし、今井漫画はその「逆」を行く。他者とは容易に打ち解けられるが、自分に近しい存在とは馴染めない。
 
まるで他者よりも自分の方が異物に思われる「思春期の精神」を表しているようではないか。
 
誰もが一度が通る年齢の、漫画を通した追体験、それによって読者は共感してしまうのではないのだろうか。
 
・・・・・・
 
今巻では、「ワンダーランド」に迷い込んだ二人の少女が意思疎通し合う様子が描かれる。
 
人間ではない存在である少女・紗名と、異能者である羽鳥。自身の存在に悩んできた両者が、会話によって答えを見つけ、触れ合い、親友になっていく姿は心を揺り動かされる。
 
しかし意地悪な見方をすれば、二人が悩みを共有できたのは、「アリスの夢」という「人間ではない証拠」を互いが持ち合わせていたからではないのだろうか。
 
近しい関係の人間同士が友人になるのは難しいという、『ぼくらのよあけ』から続く、今井先生の冷ややかなメッセージは今も有効であるように思えてならない。
 
今井先生について考察したいことはまだまだあるので、時間が空いた時にでも行おうと思う。